【日本民法】条文総まくり

旧民法から現行民法まで。1条ずつ追いかけます。

仁井田益太郎解題『旧民法』(1)旧民法成立の経緯

民法
仁井田益太郎 解題
日本評論社
1943(昭和18)

 

dl.ndl.go.jp

※以下は同書を現代語訳したものです。意訳した部分もあります。気になる部分については原文をご確認ください。

 

 

第1 旧民法成立の経緯

 民法という名称は、元老院議官だった津田真道が、慶応4年(明治元年)に真一郎と称していた当時、人民相互間の法律関係を規定する一般法律の名称として創造したものです。津田は、オランダ語の「ブュルゲリーク・レグト」Burgerlyk regtの訳語としてその著『泰西国法論』の中で民法という語を初めて用いました。そして、箕作麟祥(後に法学博士として司法次官となる)がフランスの「コード・シウィル」の訳語として民法という語を用いてから、一般に民法という語が使用されるようになりました。旧民法の編纂に当たっても、従来の用語を踏襲しました。

 

 日本での民法編纂の事業は、明治3年8月、太政官に制度取調局が設置され、その計画が立案されたことに始まります。明治5年4月に司法卿となった江藤新平は、当時同局の民法編纂会の会長であり、フランス民法に基づいて速やかに日本の民法を編纂すべきだと唱えていました。その実際の考えは、フランス民法をそのままわが国の民法としようというものでした。そこで、江藤新平は、当時の権内史箕作麟祥に命じ、大急ぎでフランス民法を翻訳させました。
 江藤新平が司法卿となってから、箕作麟祥に命じてフランスの商法、訴訟法、治罪法などを翻訳させ、その翻訳を基礎として法典を編纂しようと計画しました。その手始めに民法を編纂しようとし、人事編の中の身分証書に関する草案を脱稿させました。これが民法に関するわが国最初の草案です。ところが、江藤新平征韓論を唱え、時の政府と考えが合わずに辞職しましたので、その計画は実現しませんでした。

 

 明治6年10月、大木喬任が司法卿となり、司法省に刑法編纂課と民法編纂課を設置し、箕作麟祥ほか数人に民法などの編纂に当たらせることにしました。箕作らは、明治9年6月に民法の起草に着手し、まもなくその草案を脱稿しました。明治10年及び明治11年起草「民法草案」と称されるものがそれです。

 

 司法卿大木喬任は、民法編纂をなおざりにできないと考え、明治6年に来日して司法省顧問となっていたフランスの法律学ボアソナードに対し、明治12年、改めて民法の起草を命じました。


 明治13年4月には民法編纂局が設置され、大木喬任がその総裁となり、法律に通じた数名の委員を任命し、「ボアソナード」の原案について討議をさせました。そして、大木喬任は、わが国の民情に適する民法を編纂するため、委員を各地に派遣してその慣習を調査することに努めました。こうして明治19年3月、民法の財産編、財産取得編の草案を脱稿するに至りました。

 

 以後の民法編纂事業は、通商航海条約の改正つまりいわゆる条約改正と密接に関係を有しています。わが国が開国以来欧米諸国と締結した通商航海条約は非常に屈辱的なものでした。つまり、わが国はこの条約によって外国の領事裁判権を認めていただけでなく、関税自主権を有することもできませんでした。条約改正は官民の大いに熱望したところで、長期間にわたって外国と条約改正につき交渉を重ねました。その結果、欧米思想を基礎とする民法、商法、訴訟法の法典がわが国で完成していなければ、欧米諸国が条約改正に応じないことが明らかになりました。そのため、条約改正という目的を達成するため、速やかにこれらの法典を、欧米思想を基礎として編纂する必要が生じました。こうして明治19年に民法編纂局などの法典編纂に関する機構を廃止し、新たに外務省に法律取調委員会を設置し、井上馨が委員長となり、条約改正事業の一翼として取り急ぎ民法編纂にも当たることとなりました。委員の中には当時の特命全権公使西園寺公望がいました。ところで、井上馨が外国と交渉して取りまとめようとした条約改正案の中には、外国人を裁判官とする条項がありました。また、日本で法律を制定するときはこれを外国に通告すべきとする条項もありました。これらの点に対しては政府内にも民間にも強烈な反対があり、明治20年10月、条約改正交渉を中止することとなったため、井上馨外務大臣を辞職し、主宰していた民法編纂事業も頓挫してしまいました。

 

 民法編纂は条約改正のためにも必要で、条約改正はわが国の積年の課題でしたので、その編纂は一日もなおざりにすることはできませんでした。そこで、司法大臣山田顕義が明治20年10月に法律取調委員長となり、「ボアソナード」に財産編財産取得編の一部分、債権担保編、証拠編を起草させ、また日本の慣習を基礎とする必要がある人事編と財産取得編のうち相続、贈与、遺贈、夫婦財産契約に関する部分を日本人に起草させることにしました。その後、明治23年末には帝国議会が始まって召集されることが決まっていましたが、もし帝国議会民法法案について修正案が多く出たり、又は継続委員会が設置されれば、民法の成立はますます遅延することになってしまいます。そのため、条約改正に関係ある民法その他の法律は、これを明治23年末までに成立させる実際上の必要がありました。そこで、法律取調委員会略則第1条には「法律取調べの目的は、民法、商法、訴訟法の草案条項のうち実行できないものがあるか、また他の法律規則に抵触することがないかを審査することにあり、法理の得失、実施の緩急、文字の当否は、これを審議することができない」と規定され、審議を速く進めることが企図されました。また、法律取調委員のほかに法律取調報告委員を置き、委員会に提出する法律草案の下調べをさせること、そして法案の起草には外国委員を充てることも上記の略則に定められました。こうして委員は大いに精励して逐条審議を行い、ついに明治21年12月、財産編、財産取得編の一部債権担保編、証拠編の法案が完成し、その法案は内閣に提出され、内閣はこれを元老院の審議に付しました。しかし、元老院で逐条審議を行うと非常に時間がかかりますので、各編を一括して議題とし、その可否を問うことにしました。そのため、議事は速やかに進捗し、明治22年7月、元老院の議決を経るに至りました。
 こうして財産編、財産取得編(第1条~第285条)、債権担保編、証拠編は、明治23年3月、法律第28号として公布され、また人事編・財産取得編(第286条~第435条)は、同年10月、法律第98号として公布され、いずれも明治26年1月1日より施行するものと定められました。