【日本民法】条文総まくり

旧民法から現行民法まで。1条ずつ追いかけます。

仁井田益太郎解題『旧民法』(3)旧民法成立前後のわが国の法律学

民法
仁井田益太郎 解題
日本評論社
1943(昭和18)

 

dl.ndl.go.jp

※以下は同書を現代語訳したものです。意訳した部分もあります。気になる部分については原文をご確認ください。

 

 

第3 旧民法成立前後のわが国の法律学

 旧民法成立前後のわが国の法律学の状態は、わが国の法律学史上興味ある問題であると同時に、旧民法の施行延期、その改正と関連しています。

 

 明治4年9月の太政官布告で、司法省に明法寮というものを設置しました。そして、明治5年7月、明法寮に20名の法学生徒を入学させ、フランス人リベロールがその教育に当たりました。明法寮は明治8年に廃止され、司法省の法学校となりました。司法省の法学校は、従来の生徒が卒業してから新たな生徒を入学させる仕組みになっていました。第2回目に入学して卒業した者の中には、現行民法の起草者の一人である梅謙次郎博士がいました。司法省の法学校を卒業した者は、法律学士という称号を得ました。(司法省の法学校の生徒で同校が文部省に移管された後に帝国大学〔今の東京帝国大学の前身〕を卒業した者は、法学士の称号を有します)。

 

 司法省の法学校は明治17年に文部省に移管されて「東京法学校」と称されました。「東京法学校」は明治19年9月に「東京大学」(今の東京帝国大学の前々身)の法学部に合併されました。そして「東京大学」の法学部で従来主としてイギリス法を教えていた「クラス」の一つを一科とし、「東京法学校」から来た「クラス」のほうを二科とし主としてフランス法を教えていました。もっとも、当時は刑法も治罪法(刑事訴訟法に該当)も施行されていたので、「東京大学」の法学部でももちろんこれらの法律を教えていました。その後、明治19年3月に帝国大学令が出され、「東京大学」が「帝国大学」となってからイギリス法律学科とフランス法律学科ができました。さらに、明治23年には帝国大学にドイツ法律学科が新たにできました。

 

 私学としては、明治10年代の中ごろから、次々に明治法律学校、英吉利法律学校、東京法学校(官学の東京法学校とは別)、専修学校などが設立されました。明治法律学校はフランスで法律学などを学んだ人々、特に西園寺公らが設立したものです。英吉利法律学校はイギリスの法律を学んだ人々が、また東京法学校はフランスの法律を学んだ人々がそれぞれ設立したものです。そして、各学校ともそれぞれ設立者にちなんでイギリス法又はフランス法を教えていました。右の学校のほかにドイツの政治学法律学などに関係ある人々が設立した独逸学協会学校というものがあり、その本科ではドイツの法律を教えていました。また、経済学のほかにイギリスの法律を教えていた専修学校専修大学の前身)がありましたが、あまり振るいませんでした。旧民法の公布後は、英吉利法律学校は東京法学院と改称され、さらに中央大学となり、また明治法律学校明治大学となり、私学の東京法学校和仏法律学校と改称され、次いで法政大学となりました。

 

 このような次第で、旧民法の公布前からわが国の法律学者には既にイギリス法派とフランス法派との二派があり、お互いに対立していました。(ドイツ法学がわが国に入ってからは日が浅かったため、ドイツ法派というようなものは特に存在していませんでした)。