【日本民法】条文総まくり

旧民法から現行民法まで。1条ずつ追いかけます。

財産編第30条【所有権の内容】

第1部 物権
第1章 所有権

 

1 所有権トハ自由ニ物ノ使用、収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ謂フ*1

 

2 此権利ハ法律又ハ合意又ハ遺言ヲ以テスルニ非サレハ之ヲ制限スルコトヲ得ス*2

 

【現行民法典対応規定】

第206条 所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。

 

今村和郎=亀山貞義『民法正義 財産編第一部巻之一』(明治23年)

※以下は同書を現代語訳したものです。意訳した部分もあります。気になる部分については原文をご確認ください。

 

138 所有権は自分の財産の中で最も重要なものです。また、物権の中で完全所有権が最も重要なものです。そのため、これを財産編第1部第1章としています。

 民法では、所有権とは、他人が干渉することを許さず、自分一人で物を独占することができる権利をいいます。そのため、ある物にこの権利を有する者は、その物を自ら使用したり、人に使用させたり、天工や人為によりその物から他の物を産出させてこれを収取したり、その物を抵当質入れのように引当てとしたり、これを有期で、または永久に他人に譲渡したり、これを完全に毀滅したりすることができます。要するに、所有権は所有物につき全権を有するということです。これが民法の所有権の大意です。その定義は以下に述べる通りです。

 

139 所有権に関しては古来これを論難する者があります。また、これを弁護する者もあります。特に土地の所有権については今日に至るまで大家の説も一定していません。また、著述発明権を所有権とする説、特権とする説もまた上に述べたように(第4条の説明)、見解が一定していません。土地を除くほかの動産についてもまた多くの異説があります。

 所有権には、「社会の共有」と「各人の専有」との区別があります。「社会の共有」については古来これを非難する者はいないようです。たとえこれに対する非難があったとしても、それは各人の専有と相対峙させることから生じる非難です。社会の共有権がなく、また各人の専有権もないとまとめて論難する者は、未だかつて聞いたことがありません。そのため、以下では各人の専有について論述しましょう。

 

140 各人が所有権を有しないという説は、昔の「ギリシャ」の時代にさかんに唱えられ、その後ローマでもこれが唱えられ、下って近世でもなおこれを唱える者が少なくありませんでした。そして、そのような所有権はないとする説も一様ではありませんでした。また、これに反対する説もそうでした。所有権を攻撃する説・弁護する説ともに数派ありました。

 この種々の説を唱える者の中には、所有権が発生する理を論ずるのではなく、専ら所有権を得る方法につき議論をする者があります。また、所有権を行使する物について区別を立てようとし、特に土地を特別物とする説を唱える者もありました。私は、ここで民法の説明をするに当たり、これらすべての議論を本書の中に掲げることはできません。ただその大要を示すにとどめておきます。

 

141 学者が特に所有権につきその有無を論ずることは、これを理解することができません。そもそも自分の権利で外物に直接の関係を有し、その物を自在にすることができる場合にこれを所有権といいます。自分が他人に対し義務を尽くさせることができる場合にこれを債権といいます。債権・所有権という点では同じではありませんが、その権利の発する本源はつまり自分です。

 所有権の権利と債権の権利とはひとしく「自分の権利」で、異なるところはありません。さらに言えば、人の有する権利の中には種々の権利があります。所有権もまたその1つです。そのため、所有権が理において正当であるかを論じるには、「自分の権利の理」に合うかどうかを論じなければなりません。

 「自分の権利」についてもまた、古くから学者がこれを議論し、本来権利はなく法律を待ってはじめて権利があるとか、人類は法律を待たずして本来権利と有するとか、非常にさまざまな考え方があります。これを簡単に論じ尽くすことは困難です。その数派の学説の中で私が最も信ずるのは、人が人である性質を基本とするものです。この説によれば、そもそも人は有形的つまり身体の発育と、無形的つまり知識の発育をすることを本性とします。これを「人道」といいます。この2つの発育を妨害する所為は、人道に悖るものです。各人には人道に合うことを求める本分があります。これを「人であることの本分」といいます。その本分を尽くすに当たっては、他から邪魔されないという理があります。この理は直ちに人道から出るもので、これを「人類の不可侵的な資格」といいます。他から邪魔されないという理を称して「人の権利」といいます。「人の権利」は「人の資格」から来るもので、神聖不可侵にして各人がこれをもって立ち、天下もそれによって存在するのです。一方では公権といい、他方では私権といいます。その種類は様々ですが、人道に基づかないものはありません。この権利の中で最も自分に直接の関係があり、少しも離れることがないのが自由権です。自由権から分派するものが所有権です。自分が飲食しなければ死ぬので、自分は必ず飲食するものを所有しなければなりません。自分に所有権がなければ、自分は盗みをしなければ生を保つことができません。そのため、自分には所有権があって、飲食する物を所有するのです。この論点については、学者の間でも異論はありません。

 

142 この所有権を証明しようとする種々の学説があります。

 第1は、先占を所有権の根拠とするものです。これは所有権の理非を証明するのではなく、所有権を取得する方法を論ずるものです。そのため、所有権の有無の議論には関係がありません。かつ先占により所有権を証明しようとしても、その説が適用される場合は非常に稀です。先占は無主の物だけにこれを適用すべきだからです。上古朦昧の世の中は既に過ぎました。今日の開明の世の中では天下無主の物は非常に稀です。特に土地は無人の境に至らなければ、無主のものはありません。土地はもともと社会の共有物で、その共有が不便なので、社会の人が互いに約して先占により各自占有することができるものと定めたという説もあります。この説は、我々の祖先が契約して各自の所有権を定めたとしますが、これは事実に反します。かつ、たとえその契約があったとしても、その子孫に対してその効力があるとすることはできません。そのため、この説は空談にすぎないのです。

 日本では、地租条例第25条で土地を欺隠することを禁じています。そのため、先占によって土地を所有することができません。

 

143 第2は、人が労力により物を作為産出した場合には、その物を所有することができるというものです。その理由は、自分は自分の身体に対して権利を有します。この身体の労力によって物を生じた場合には、その物に対し最も権利を有する者は、必ずその労力主でなければならないとします。また、労力は物に価値を生じさせるものなので、労力主はその価値を享有すべき理があるとします。

 この説に従うと、奇怪な結果を生ずることがあります。例えば、土地を賃借する者は、その労力で土地を改良するのが普通です。つまり、物に価値を生じさせたり、増加させたりするのです。賃借主が自己の労力で他人の土地を改良し、それにより価値を与え、自分がこれを享有することができるとすると、原地主と共有者となってしまいます。民法取得編第26条は、労力を加えた場合でも必ずしも労力者は労力の結果である価値を自己の物とすることができないと規定しています。単に努力だけでは必ずしも所有権を取得することができないことを定めています。

 ある学者(ラウレー)は、この労力の説を批判して、世に労力者の存在する間は決して労力を所有権の理由とする説は通用しないだろうとします。労力により他人の物を取得するものとすると、奇怪な結果に至ることを嘲るからです。

 

144 第3説は、人の世にはもともと所有権はなく、天下で争っているもので、豪傑の者が法律を立て、各人の所有権を定め、それぞれその分を守らせ、これにより争いを絶ったとするものです。

 この説によれば、所有権は法律で定まるもので、法律の制定がなければ、所有権は存立しません。

 そもそも法律は人の権利を保護するものです。そのため、人道の理に従わざるをえません。この理に背く法律は非理の法律です。例えば、かつて西洋では人類を奴隷とし、これを他の物品のように所有することを認める法律がありました。この法律が非理であることは天下すべてがこれを知っています。法律は権利を保護するのではなく、かえって権利を作為するものだとすると、その奴隷を認めるような法律もまたその主人に奴隷を所有する権利を付与することになります。この事例では非常に奇怪な結果になります。奴隷の主人は法律によって奴隷を所有する権利を得て、奴隷その者は法律によって取得することができるものがないだけでなく、独立自由の権利を失うことになることを考えてみてください。主人と奴隷はひとしく人です。1つの法律で一方に権利を与え、一方から権利を奪うのは、論理的にもまた弁解し難いものです。

 また、法律で権利を作為することができるとすると、その法律はどのような原理に根拠を持つものでしょうか。それともまったく拠るべき理はないのでしょうか。拠るべき理があるとすると、その理は、権利は存するもので、法律は権利を作為するものではなく、つまり、これを保護するにすぎないとするものです。拠るべき理がなければ、そのようなときはその法律は自在に変更することができ、立法者の擅横に一任する結果となってしまいます。そのため、立法者は権利を作為したり、これを取り壊したりして、今日の所有権は明日には廃止されることもありうることになります。人生、朝にして夕を期せず。これでは社会は解頽するだけです。

 

145 第4説は、所有権は自然権だとするものです。我々が生をまっとうする所為つまり肉体と知識を生育保存するために必要な権利だからです。

 この説は、私がはじめに述べたところで、理の当を得たものです。

 論者は、人に生があればこの権利を有するといいます。しかし、自ら努力しなければこれを有用なものとすることはできません。そのため、我々は必ず労力することが必要です。また、必ず労力を施す材料を有することが必要です。

 また、生をまっとうするのは我々の目的で、所有権を有するのは我々の目的に到達しようとする方法です。所有権そのものを我々の目的とするのではありません。そのため、所有権を行使するには必ず範域があります。つまり目的に到達する用をなすだけです。これをこの範域外で行使する場合には、これを濫用するものとします。

 所有者は物を利用する責任があります。不利に用いるのは人道が許さないところです。ある学者は所有者にはその所有物を自在に利用しない権利があるとしますが、どのような権利を指すのか理解することができません。労力しなければ所有権を行使する意味がありませんし、自ら労力せずに所有権を行使しようとすると、必ず他人の権利を侵害するからです。そのため、労力は我々の本分です。

 我々が労力で所有権を行使し、それにより外物によって生をまっとうするという事実は、決して法律の制定を待つものではありません。我々がこの世に生まれれば、業は既に行使されています。所有権は人が人である本性に起因し、各人は成長するのに必要な所有権を有し、他からこれを奪うことはできません。

 

146 我々が所有権を有する理は、上に説いたところで既に明瞭でしょう。所有権を行使するに当たり、ある物について区別すべきでしょうか。特に土地についてもまた同じくこれを行使することができるのでしょうか。

 日本民法は、物について所有権の区別を立てていません。すべて同様に所有権を行使することを定めています。しかし、その保護の程度は土地に厚く、また土地と他の物とは収用の法律も異なります。西洋の学者には、土地と他の物とを分別すべきことを論じる者もあります。ここでそのいくつかの説を紹介しましょう。

 「スペンセル」は、ここに人種があり、その各人は志欲に従い、目的を達成するに当たり、それぞれ平等の権利を有するとします。また、ここに社会があり、この人種の志欲を満足させるのに適当なものだとします。各人がこのような社会に生まれ、万事平等であるとすれば、各人はその社会の利益を享有するのも必ず平等です。他人の自由を害しない以上、各人は自由に動作することができるという原則に基づき、他人に害を加えない以上は、各人はその需用を満足させるために、その社会に存在する天然物を自在に使用することができるからです。さらに言えば、各人は、土地・天然物を使用する場合に、他人にこれを使用させないような行為をすることはできません。他人に土地を使用させないときには、その自由を妨害し、原則に背くからです。○そのため、公正の理においては、所有権を土地に適用することは許さません。仮に人々に土地の幾分かを専有専用することを許せば、この1人はこの幾分を専有専用し、またほかの1人は他の幾分かを専有専用し、これにより地球の全面は数人の専有専用に帰することになってしまいます。○そのような状況になれば、土地を所有しない者は、地球上に足を入れる権利がないことになります。そのため、他の所有者の好意により土地を借りて生息するか、そうでなければ無理に土地を押領するしかないことになり、土地の所有権は各人平等の自由権に背くものになります。他人の許可を得て起居動作する者は、実は自由を有しないからです。○土地はこれを耕作しても、またこれを各人に平分しても、決してその上に絶対的な所有の専権を許与されません。所有の専権を許与すれば、世の中は所有権の壓制専横に至るでしょう。どこの国でも自由を保護する法律を制定する主義は、所有の専権を許さないという本意に合うからです。要するに、土地についてはこれを有する者が死亡すれば、社会でこれを相続すべきです。このようにすると、社会の開明を最も助けることになります。この説を実際に行うのはもとより至難ですが、公理公道によって論ずれば、このようにならざるをえません。

 「ミル」もまた、そもそも所有権は我々の労力で産出した物の上にこれを有するものだとし、産出したものではないもの、つまり土地の上にはこれを行使することができないとします。ただし、土地は大いに人の労力を加えてはじめて物を産出することがあります(後蕪地を開墾することをいいます)。このような土地については、その占有を保護せざるをえません。これは社会の経済上の理由より来るものです。そのため、通常土地の所有者は、かえって土地を改良しない場合には所有権を付与する理由を失うことになります。

 また、土地の所有権は社会に有益でなければこれを正当のものとすることはできません。いったん土地の所有権を認めた場合には、社会の中の一部の者は生まれながらにして土地を有することができません。このように社会の一部の者が土地を有することができないことを正当だとするには、このような者がいてもまた社会に公益があるということを証明する必要があります。この証拠を挙げなければ、土地の所有権を正当であるとは言い難いからです。このような証拠は到底挙げることのできるものではありません。

 「ラウレー」は、「スペンセル」はもとよりその説を直ちに今日に実践するとしているわけではないとします。ただ、将来に向かってその至公至平と認めるところを述べたものです。非常に奇妙なのは、既にその説が古に実践されたことです。

 土地所有権の沿革によれば、各人の専有専用は永久に許されるものではありません。古来どの国でもそうです。

 古い昔には、土地は1村や1部落の共有で各人がその利益を享有する制度、国家の所有で各人にこれを分与して終身とし、これを国家に返還させる制度がありました。今日のように各人の専有を認め、これを永久のものとするのは、実に最近のことです。日本では、明治5年2月15日(第50号布告)ではじめて各人の所有を認めました。また、海面については今日でも各人の所有を認めていません。土地は公益のためにはこれを奪わなければならない場合も少なくありません。そのため、土地については特別の制度を設けざるをえないことになるでしょう。しかも、土地そのものはこれを所有し難く、ただ土地に加えた形を所有し、土地そのものを占有するだけです。しかし、日本民法はこれらの区別をせず、すべて世間の普通の所有権を認めています。

 土地の制度は古来どの国でも大いに変革し、社会経済上の便宜より、今日の所有権を生じたかのようですが、今なお変遷しつつあります。将来どのような所有権となるか、あらかじめこれを言うのは困難です。

 

147 著述発明等の権利は、所有権でしょうか、特許権でしょうか(第4条参照)。

 この問題は事実上大いに関係があります。所有権だとすれば当然これを保護すべきで、これを侵害することはできません。特許権だとすれば、必ず社会の一時の便宜のためやむをえず法律上認定したものというべきです。そのため、これに終尽の期限を設け、速やかに消滅させる方法を求めるべきです。

 この問題については、古来これを論ずる者は非常に多く、著書もまた数百部にも上ります。民法の義解の中でその完全な弁明をすべきものではありません。ただその大略を以下に記述するにとどめます。

 まず、この種の権利が何であるかを説明しましょう。

 版権・興行権・発明権とは、ある有体物や無体物にある形を施し、これを模写してその模写物を販売する権利をいいます。例えば、自分がある書物を著述したり、ある機械を発明したり、これを模写して販売したりして、専らその利益を占めるようなものです。この権利が所有権か特許権か、ここでは著書について論じてそのほかを知らしめることにしましょう。

 

148 そもそも土地を占有し、これを耕作し、これを自分の所有物であるとする一事は、法律が既にこれを認め、学者もまたこれを疑いません。その所有物と称するものはどのようなものを指すのでしょうか。荒蕪地を開墾して田畑とした場合には、旧地形を変じて新地形を作ったものと考えられます。また、著述者が言語を集めて一編の書を著したときは、言語にある形を付着させたものといえます。土地は有体物で、これを把握することができますが、言語は無体物で、そうではありません。これは2つの物が相異なるところです。そのためにこれに関する権利もまたその性質を異にするのでしょうか。

 思うに、所有権の目的物は上に述べた形があり、我々に利益を与える物もまた形があります。この形は独立せず、他の物に頼って成立します。この形を付着させたのが土地である場合には、誰も疑いを容れません。その形を作った者に所有権があります。土地は既に上に述べたように、ある学者はもともと社会の共有物で、各人にこれを永久所有することを認め難いとします。ただ、これに形を付着した者にはしばらくその土地を占有することを認めることができます。社会の便益のために必要がある場合には、その土地の占有を奪います。これは第31条に規定されています。

 言語もまた土地に類して社会の共有物です。そのため、各人がこれを専有することは認められません。しかし、これにある形を付着させた場合には、その形を所有することができます。その情況は、土地に形を付着させたのとまさに同じです。世人は土地の場合には所有権を怪しまず、言語の場合には疑問を抱いて種々に論議するのは、私には理解できないところです。土地を耕してこれを田とし畑としてこれを所有し、その媒介によって米麦を収穫するのと、言語を編綴してこれを詩とし文としてこれを所有し、これを歌い、これを唱え、またはこれを模写して販売し、それにより金銭・器物を取得するのとは、まさに同じではないでしょうか。

 有体物に関する所有権に正当の理がある場合には、言語が無体物に付着させた形を所有することにもまた正当の理があります。ふつう所有権に正当の理があることは、既にこれを上で説明しました。そのため、著述の権利についてもまた同様の理に従うべきですが、著述を施す言語は個人で専有することができない物なので、他の所有権と同様の制度に従うことはできません。

 

149 近時では、著述権を所有権とする論者が多数です(西洋でもある国では版権は著者の終身に5年を加えた年限を法としますが、版権登録の日から死亡の日までを計算し、これに5年を加えてなお35年に足りない場合には、版権登録の日から35年を期限とします。興行権の年限は版権に同じです。写真・版権の年限は10年、特許権については5年・10年・15年の3種類があります。意匠権には3年・5年・7年・10年の4種類があります。商標権は20年を期限とします。)。

 要するに、著述権の類に関しては、どこの国でも無期永久の制度を定める例はかなり少ないので、この権利を所有権と論ずる者は、この有期の制度を廃止することを希望し、これを所有権ではないと論ずる者は、これを無期永久とすることはできないと説き、特許権であるにすぎないという理由とします。これが学者の最も激論している点です。

 私は、そもそも権利に終尽の期があるかどうかは、一種の別問題で、ただ所有権だけに関係あるのではないと考えます。そのため、学者がこれを著述権の所有権かどうかを判別しようとするのは、私には理解できないところです。

 

150 そもそも我々の権利は、我々が人である大目的に到達するための方法で、我々の一身に随伴するものです。我々の生命が存する間はもちろんこれを有し、死亡後も、我々の負担する義務をことごとく履行せずに死亡した場合には、なおその義務履行に必要な権利を保存せざるをえません。そのため、我々の権利は我々とともに存滅するのを原則とします。我々が死亡後永久の期間を目的として生存中に我々の財産上の処分を行い、将来を束縛することは、西洋でも一般に禁じられています。我々の労力により生じた結果は、我々の死亡後には社会が相続します。フランスでは、著者の死亡後50年を期限とし、ドイツでは30年を期限とします。これらはたいてい適度を得たものです。

 

151 本条第1項は所有権を定義し、第2項はその制限を設けています。定義の中に使用・収益・処分の3か目を掲げています。

 「使用」とは、家屋に住居し、車に乗り、衣服を着用するといった類で、物を直接に用に立てるという意味です。

 「収益」とは、広くこれを言えば、田畑を耕作して米麦を収穫し、山岳を開掘して金銀玉石を採取するといった類で、物から生ずる産物を収取するという意味です。また、物を賃貸してその賃銭を収取することもまた収益の一種です(第51条参照)。そのため、同一物で使用したり(直接に)、収益したりすることができます。例えば、自ら家屋に住居することは使用で、これを賃貸するのは収益です。

 「処分」とは、所有の全権を売却し、贈与し、またはその支分権例えば収益権だけを売却し、贈与するといった類です。また、所有物の全部または一部を毀壊し、切断し、またはその形様を変えることもまた処分に属します。

 所有権の作用は、この3種類の事項に限られるわけではありません。このほかにもなおたくさんありますが、本条ではただその重要なものを挙げているだけです。例えば、所有者は他人がその物に干渉することを排斥することができます。そのため、第245条に土地の所有者は適宜にこれに囲障を設けることができることを定めています。また、所有者はその物を抵当質入れする権利を有します。要するに、所有権とはある物を独占できる権利をいいます。

 しかし、学理的に所有権を分析すると、実は使用・処分の2つに大別できるにすぎません。その収益と称するものは間接の使用で、使用中の小区分です。そのため、処分権のほか使用権を加えると、所有権は完全となります。使用権を小区分して収益権を1目としようとすると、処分権をも区分しなければ権衡を得ません。処分権の中にもその区分が多いからです。例えば、物を売却・滅却することは処分です。また、その上に物権を設定したり、これを変形したりするのもまた処分です。日本民法はこれらの学理ではなく、一般の学者の説を掲げています。

 本条に自由に云々とあるのは、所有者がその所有物につき使用し、収益し、処分するのは自在で、これを妨害することができないというものです。

 

152 所有権には終尽の期限があっても妨げないでしょうか。

 この問題については、有期と条件をと区別して論ずることが必要です。その詳細の区別は、以下の人権の部に掲げられています。ここではただその大略を示しておきましょう。

 

153 ① 条件付きの場合 財産編第408条によれば、権利の発生と消滅を未来・不確定の事件の有無にかからせる場合には、その権利を条件付きのものといいます。所有権にもまた条件を付することができるのでしょうか。

 例えば、Aが、Bに対し、自分が地方の裁判官に任じられたならば、自分の東京にある家屋をBに売却すると約したとします。その任官は将来のことで、かつ不確定です。そのため、この種の契約を「条件付きの売買」といいます。まだ任官されない間はその売買はまだ効力を生じず、停止されているので、これを「停止条件」といいます。

 Aが、地方の裁判官に任ぜられたとします。再び都府に帰来することがあることを考慮し、Bに対し、今自分の家屋を売却するが、自分が再び都府で任官されて帰住することがあれば、自分がこの家屋の所有権を取得すると約したとします。Aが都府で任官するのは将来のことで不確定です。都府で任官されれば家屋の所有権はAに帰属し、Bの所有権は解除されるので、これを「解除条件」といいます。

 この2種類の条件は、所有権にこれを付帯させることができます。例えば、停止条件付で自分の家屋を売却しても、その条件が到来しない間は自分は自在に自分の所有権を行使することができます。その条件が到来すれば、その効力は既往に遡り、はじめに約束をした日から効力を生じます。そのため、買主はその日から所有者となり、この日以後に売主がしたすべての処分はすべて消滅し、買主は所有の全権を取得します(第409条参照)。

 また、例えば解除条件付で自分の所有物を他人に売却し、その後その条件が到来すれば、その効力は約束の日に遡り、自分の所有物は未だかつて売却されたことはないことと同様の情況となるので、買主が行使したすべての事為はすべて消滅し、所有の全権は売主に帰属します。

 以上説明したように、条件を所有権に付することができるかどうかについて、西洋の学者でもこのような条件を所有権に付することができないと論じる者は、私はまだこれを聞いたことがありません。もとより日本でもこの種の条件を付して所有権を輾転することができます。

 条件を付さずにいったん売買した物をその後双方の承諾により解除する場合は、上に述べた解除条件付の売買とは異なります。承諾による解除の効力は既往に遡りません。実は再売買で、解除ではないのです。

 

154 ② 有期の場合 第403条によれば、ある確定の期日に権利を成立・消滅させるというのは、「有期の権利」です。

 条件付の権利は、その条件が到来すれば根元から消滅して何も残りません。条件が到来しなければ、その権利は完全に永久のものとなります。有期の権利には一定の期日があり、その期日が到来すれば到来以後に向かってのみ権利を消滅させ、その以前に向かって存在させることになります。これが有期と条件との違いです。

 所有権には期限を付することができるのでしょうか。

 例えば、Aが土地を所有しており、5年後にその土地をBの所有物をすることを乙と約したとします。その5年の期限が到来しない間は、その土地はAの有期の所有物とすべきでしょうか。

 所有権は自在であるとの原則を立てる学者がいます。この期間にAが所有権を有するとすれば、その所有物を他人に売却することができます。そうすると、Bは5年の期限が到来してもその所有者となることができません。これに反してAがその土地を処分することができなければ、その場合にはAは所有者ではなく、Bが所有者ということになります。そのため、所有権には有期のものを認めることはできないとします。

 所有権には条件を付することができ、これに期限を定めることができないとするのが学者の説明ですが、これは理解し難いものです。

 所有権に条件を付すると、その条件が到来すれば条件到来の効果は既往に遡り、契約の始期に及びます。そのため、この間になされたすべての処分がすべて消滅することは、上に述べた通りです。所有権に期限を付すると、その期限が到来してもその効果は既往に遡りません。そのため、期限到来前のすべての処分はすべて有効で、決して消滅しません。ただこの効果が既往に遡るかどうかの差異があるだけで、一方は所有権に付帯することができ、他方はそうでないとする理由はどこにあるのでしょうか。

 所有権が永久無期のものであるとは、西洋の学者が常に唱えるところです。所有権は自由の全権であるという西洋の学者が所有権に期限を付してはならないというのは、これに期限を付するとこれらの原則に反するきらいがあるためでしょう。しかし、学者の説には従い難いところがあります。そもそも所有者がその所有物を譲渡するにあたり、これに期限を付するも付さないのもまたその自由権の範囲内のことです。これに期限を付しても、譲受人は譲渡人の権利を害しなければ、期限内にどのような処分をすることもできます。そのなされたすべての処分はすべて有期で、これを条件と比べるとかえって第三者のためには弊害が少なくなります。西洋の法学者もまた私と同じことを説くものがあります(ローラン)。

 前の事例でAが5年後にその所有する土地をBに譲渡することを約し、その5年の期限が到来しないうちにCにその土地を譲渡したと仮定します。5年の期限が到来したときはどうなるでしょうか。これを処分すべきでしょうか。思うに、5年の期限が到来すればBはその土地を譲り受ける権利を有します。期限到来前にAがした処分は、Bを害することができません。第2の譲受人であるCの権利は期限到来とともにBに対しては無効となります。

 そもそも有期の権利は少なくありません。用益権がそれです。所有権についてだけ有期を論難するのは、理解し難いところがあります。

 相続人がない者の所有権は、一種の有期のものです。

 

155 所有権の制限については、大日本帝国憲法もまた黙っていません。その第27条には「日本臣民はその所有権を侵されない」、「公益のために必要な処分は、法律の定めるところによる」とあります。

 前者はどのような権力でも所有権を侵害することができないことを確保するもので、民法第30条第1項にそれを定義し、かつこれを自由の権利であるとするのと同じです。後者は、これに多少の制限を加えることがあることを予告しています。つまり、民法第30条第2項の意味するところです。ただし、憲法では法律で公益のために制限することを述べており、民法は法律のほかなお合意と遺言により所有権を制限することができることを定めています。公益で制限する条件とはしていないようです。憲法民法とで矛盾しているのでしょうか。この条文の批評については、以下で論じることにして、ここではまずその意義を説明しましょう。

 第1項で、所有権は自由の権利で、自由にこれを行使することができると定義します。しかし、所有権は絶対的な自由権ではありません。そのため、第2項でその制限があることを示しています。

 何により制限することができるのでしょうか。法律・合意・遺言によってこれを制限することができます。

 法律により制限する場合は、第31条以下に定められています。また、以下の地役の章やその他の法律でこれを掲げている多くは公益を目的とするものです。

 このほかフランスには嫁資財産の制度があり、嫁資とした財産を売買することが禁じています(フランス民法第1554条)。この種の法律はかえって社会の公益とはなりません。そのため、なるべくこれが制定されないことを望んでいます。

 華族世襲財産は勝手にこれを売買・贈与することができません。これもまた所有権の制限です。

 市街地では、家屋の構造の方法やその建築の材料に制限を設けることがあります。東京でも防火線内の家屋は不燃質の物を用いる法律があります。これが土地の所有権を自由にすることをできなくさせるもので、市街地の所有権に加えた制限です。

 刑罰の法律では、罪人の所有権を没収することも定められています。

 所有者が死亡した場合には、法律はその親族の中のある者に死者の所有物を相続することを認め、相続すべき者がないときは遺産を国に帰属させます。これは第23条第2項が定めるところです。

 西洋の民法によれば、所有者が子女を有する場合には、生存中の贈与・死亡後の処分につき法律の制限を受けることがあります。日本でもいずれこの類の制限を定めることもあるでしょう。

 法律で定めた制限で特に甚だしいものは土地の収用です。これは以下で説明します(第31条)。

 

156 「合意による制限」とは、民法の趣旨に従えば、例えばA・B2個の土地の所有者が合意してA地の眺望を阻害しないようB地に樹木を栽植しないとか、高楼を築造しないなどと定めることをいい、B地の所有権の効用を制限することをいいます。また、所有物を賃貸したり、これに用益権を設定したり、これを抵当としたりするなど、種々の物権を設定するのもまた「合意上の制限」です。この種の制限は、遺言でもすることができるので、合意と遺言とは同一種類のものです。

 以上説明するところにより、所有権を制限する権力を有するものは、第1に法律、第2に合意、第3に遺言、この3つに限られることが分かります。このほか勅令・閣令・省令の類でも決して所有権に制限を加えることはできません。

 

157159 略(論説)

*1:所有権とは、自由に物の使用、収益及び処分をする権利をいう。

*2:この権利は、法律又は合意又は遺言でなければ、制限することができない。