【日本民法】条文総まくり

旧民法から現行民法まで。1条ずつ追いかけます。

仁井田益太郎解題『旧民法』(4)旧民法施行の延期

民法
仁井田益太郎 解題
日本評論社
1943(昭和18)

 

dl.ndl.go.jp

※以下は同書を現代語訳したものです。意訳した部分もあります。気になる部分については原文をご確認ください。

 

 

第4 旧民法施行の延期

 旧民法の成案が元老院の議決を経た時より少し前のことですが、明治22年5月に開かれた法学士会の同年春期総会では、全会一致で法典延期の意見が決定されました。民法、商法などの法案の完成が近いことが分かったからです。その意見は、要するに、わが国の今日のような百事改進の時期ににわかに法典を編纂するのは困難かつ危険であり、いま急ぐ必要のあるものに限り単行法でこれを規定し、法典全部の完成は民情風俗がやや定まったころを待ってあらかじめ草案を発表し、広く公衆の批評を受けて徐々に修正を加え、その大成を期すべきであるという点にありました。この意見は公表され、世の注意を喚起しました。これがもととなって民法・商法の公布後、その施行延期の議論がにわかに世上に巻き起こり、ついに帝国議会でも延期論が優勢となりました。しかも、民法施行の延期と商法施行の延期とは、後に述べるように、微妙な関係を持っていました。

 

 元来旧商法の草案はドイツ人「ロエスエル」が起稿したもので、これを原案として山田顕義主宰の法律取調委員会で審議を尽くし成案を得た上、これを元老院の議に付して明治22年6月にその議決を経て、翌23年4月27日法律第32号として商法を公布し、明治24年1月1日よりこれを施行することとしました。これは法典延期論が法学会の意見に端を発して次第に勢いを得ていたころで、商法の施行を延期すべしという意見が盛んに唱えられ、またこれに反する断行論も盛んに唱えられました。延期論を唱える者はイギリス法派の学者で英吉利法律学校を本拠とし、断行論を唱える者はフランス法学者で明治法律学校を本拠としていました。そして両者とも外部に向かって盛んに運動し、あるいは両院議員を勧誘し、これに意見書を送付し、あるいは商業会議所や諸種の実業団体に請願書を提出させ、あるいは言論界に働きかけ、あるいは演説会を開催するなど種々の方法で目的の貫徹に努めました。言論界もまた断行、延期の二派に分かれて互いに論戦しましたが、政府は断行論者を支持していました。
 延期論者は、商法の公布とその施行との間はわずか8か月しかないため、商法の施行は商業社会を攪乱することになると非難し、あるいは商法の規定が実質的に不当であること、そしてその規定がわが国の慣習を無視するものであることを論難しました。しかし、商法施行の時期が早きに失するとして、その施行を延期し、おもむろに施行すべきという意見が延期論の有力な論旨でした。
 こうして、明治23年11月25日に招集された第1回帝国議会では、商法及び商法施行条例延期期限法律案として、明治26年1月1日、つまり民法施行の日に商法とその施行条例を施行するという趣旨の法律案が衆議院に議員によって提出され、同院を通過した後、明治23年12月27日法律第108号として公布されました。こうして法典延期学者は商法の施行について緒戦の功を収めました。

 

 商法施行の延期につき、帝国議会での議論では、特に民法のことには論及されず、民法施行の日に該当する明治26年1月1日まで商法の施行を延期することに議論が集中しました。そのため、政府は民法に修正を加えることと考えなかっただけでなく、商法の修正も考慮せぬまま約1年半あまりを経過し、明治25年5月2日に招集された第3回帝国議会に臨んだのでした。民法施行の延期、商法施行の再延期もまた政府は考慮していませんでした。こうして法典延期論者は初戦で勝利を得てまず第一塁を陥れ、さらに第二塁を陥れて完全に法典を葬り去って、完全にその目的を達成することをひそかに期していたのでした。一方では、法典断行論者は捲土重来を期して、商法の堡塁を支持するとともに、民法の堅塁を死守しようと待ち構えていました。そのため、第三帝国議会が開かれると、法典延期断行の論戦はさらに激烈を加え、英吉利法律学校を根城とするイギリス法派の延期論者十数名は、法典実施延期意見書というものを発表しました。その趣旨の主なものは、新法典は倫常を攪乱し、国家思想を欠き、憲法上の命令権を減縮し、予算の原理に違い、社会の経済を撹乱し、威力をもって学理を強行するものだということでした。また、右の意見書に対し、明治法律学校を根城とするフランス法派の断行論者は、法典実施断行意見書というものと発表しました。この意見書は一層激烈なものでした。その論旨は、要するに、法典の実施を延期するのは国家の秩序を紊乱し、倫理の破頽を来し、国家の主権及び憲法の実施を害し、立法権を放棄してこれを裁判官に委ね、権利の保護を欠き、紛争を惹起し、国家の経済を撹乱するものであるという点にありました。
 このほか、延期論者が帝国議会その他で旧民法の欠点として非難し、延期の理由としたものには、(1)慣習に反すること、(2)フランス、イタリア民法を模倣するのみで進歩した立法例・学説を採用していないこと、(3)商法の規定と重複し又は抵触するものが多いこと、(4)包括的な規定を設けず、個々の場合につき規定をしているため煩雑でかつ欠漏が多いこと、(5)公法・手続法に属する規定を多く設けていること、(6)定義、引例などが多く法典の体裁を失っていること、などがありました。この非難は実に旧民法の施行を延期させた主要な論拠となったものです。

 

 以上のような径路を経て、明治25年5月、民法商法施行延期に関する法律案が貴族院議員から提出され、両院で可決され、明治25年11月法律第8号で、民法は商法、法例その他の付属法とともに修正を行うため、明治29年12月31日までその施行を延期する旨の法律が公布されました。そして、明治29年4月28日法律第89号で現行民法前3篇が公布され、明治23年法律第28号民法財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編は、同前3篇公布の日をもって廃止されましたが、その他は明治29年12月31日に間に合わなかったので、同年同月28日法律第94号で「明治23年法律第32号商法総則第1編第1~5章、第7~11章、第2編、同年法律第97号法例、同年法律第98号民法財産取得編、人事編、そしてその施行に必要な法律は、明治31年6月30日までこれを施行しない。ただし、商法第1編第2・4章は、商事会社については従前の通りこれを施行する。」と定められ、明治31年6月21日法律第9号で現行民法第4・5編が公布され、明治23年法律第98号民法財産取得編、人事編は、同第4・5編公布の日をもって廃止されました。

 

 ところで、イギリス法派の学者とフランス法派の学者との間で、法典の施行につき激烈な論争が生じたのはなぜかということを考えますと、その原因の一つは、学風の相違にあることが分かります。イギリス法派の学者は、不文法を尊重し、成文法が不自然であると嫌う空気がありました。これに対し、フランス法派の学者の間では、フランス民法を尊重する空気が非常に濃厚でした。そして、フランス民法を模倣した旧民法が実施されれば、イギリス法派の学者は勢いを失い、フランス法派学者の世となるだろうと、一種の勢力争いもまた同時に両者の間に存在していました。この勢力争いが両者の争いをさらに激烈なものにしたのでした。要するに、法典延期論者と法典断行論者との争いは、単純な学問上の論争ではなかったのです。
 旧民法、旧商法が公布される前には、判検事採用試験などに際しては、民法、商法につき各自学ぶところに従ってイギリス法、フランス法又はドイツ法の試問を受けていました。そして、旧民法、旧商法の公布後には、各法律学校で旧民法、旧商法の試問を受けており、旧民法、旧商法は、わが法学界を支配したのでした。このことは、イギリス法派の学者をいたく刺激したところで、イギリス法派の学者が法典延期論を唱えた事情の一つであったと思われます。