【日本民法】条文総まくり

旧民法から現行民法まで。1条ずつ追いかけます。

財産編第3条【人権(債権)の定義・種類】

1 人権即チ債権ハ定マリタル人ニ対シ法律ノ認ムル原因ニ由リテ其負担スル作為又ハ不作為ノ義務ヲ尽サシムル為メ行ハルルモノニシテ亦主タル有リ従タル有リ*1

2 従タル人権ハ債権ノ担保ヲ為ス保証及ヒ連帯ノ如シ*2

 

【現行民法典対応規定】

なし

 

今村和郎=亀山貞義『民法正義 財産編第一部巻之一』(明治23年)

※以下は同書を現代語訳したものです。意訳した部分もあります。気になる部分については原文をご確認ください。

 

16 第2条の説明の中で、人権の要点について述べました。さらにこれをまとめると、人権とは、ある人が他人に対しあることをさせる権利、させない権利ということになります。本条では、特定の人、法律の認める原因、作為・不作為とさまざまな事項が定められています。民法にいう人権とは漠然としたものではなく、常に義務と相対するもので、人権があれば必ず義務があります。義務があれば必ず人権があります(第293条参照)。そのため、義務とは何かを説明した上で、本条の様々な事項を明らかにすれば、人権とは何か、おのずと理解することができるでしょう。


17 民法にいう義務とは、一定の範囲内にあるもので、広く諸般の義務を指すものではありません。そのため、本条では、法律の認める原因から生じる義務に限ることが示されています。法律の認める原因とは、第295条に掲げる4つの原因を指します。

 一般に、義務を発生させるには制限があります。法律は原因が何かを問わずに義務を認めるわけではありません。民法上義務が有効であるためには、それが必ず第295条に掲げた4つの原因のうちの1つから生じるものでなければなりません。つまり、第1に合意、第2に不当利得、第3に不正損害、第4に法律の規定です。民法が義務を認めて法律上の効力があるものとし、これに対する訴権を生じさせるのは、この4つの原因から生ずる義務に限定されます。このほか、道徳・宗教・社交より種々の義務が生ずるとしても、これは民法上の義務ではありません。この4つの原因から生ずる様々な義務、これに対する権利については、この編の第2部に詳細な規定が置かれています。そのため、ここでは詳しく説明しません。また、そのほか人事編に掲げる権利義務があります。例えば、扶養料の権利・義務です。しかし、まだ人事編が制定されていないので、ここで論じることはできません。


18 本条には「定マリタル人ニ対シ」とあります。これもまた民法上の義務に必要な条件です。民法上の義務には一定の義務者があることが必要です。また、本条に明言されているわけではありませんが、権利者もまた一定していることが必要です。第293条にこれが掲げられています。我々が社会に立つ場合には種々の義務を負うことは上に述べた通りです。しかし、一定の権利者と一定の義務者がないものは、すべて民法上の義務ではありません。


19 「作為の義務」とは、他人のためにあることをする義務です。この作為といえるものの中にはいろいろなことが含まれます。例えば、雇われた者のように他人のために労力だけを提供したり、請負人のように労力と物品とを合わせて提供したりするような義務を指します。

 「不作為の義務」とは、例えばある俳優がある劇場でだけ演芸し、他の劇場では演芸してはならないという合意により生ずる義務です。演芸をしないことは義務の目的です。そのため、これを「不作為の義務」といいます。


20 以上の種々の義務の履行を請求する権利を「人権」といいます。人権とは、人から利益を得るものです。ところで、人の身体はこれを拘束してはならないとの原則があります。そのため、義務者が義務を履行しない場合には、義務者に損害を賠償させることができるにとどまります。しかし、義務者が無資力であれば、損害を賠償させることができないので、人権を有していても結局は無益に終わってしまいます。そのため、その利益を取得できるかできないかは、物権におけるような確実なものではありません。人権を「希望権」と呼ぶ学説があるのはそのためです。

 本条では、人権は誰にも対抗することができるとはしていません。人権はある特定の人に対するものだからです。天下すべての人に対するものではありません(以下の論説[省略]を参照)。

 

21 人権にもまた主従の区別があります。「主たる人権」は、独立して利益をなすもので、前に掲げた作為・不作為の義務に対する人権はすべて主たるものです。「従たる人権」は、他の人権の担保のために設けられるもので、これに従属する権利です。保証人や連帯の契約から生ずる権利がこれに当たります。保証が従たる権利であることについて説明は不要でしょう。では、連帯はなぜ従たる性質を有するのでしょうか。連帯では主・従の2つの性質が混合しています。各連帯債務者はその自己の負担すべき部分については主たる義務を負い、他の債務者を保証する部分については従たる義務を負うからです(担保編第3条第51条参照)。


22 第3条では、人権に種々の名称を付して列挙していません。人権は千差万別だからです。各人の意向に従って合意し、人権を作り出すことができます。そのため、その種類は非常に多いのですが、その原因は前に掲げた4つに限られ、だいたいのところは同じです。そうした理由から、法律で各人が任意にこれを設定することを制限することができないのです。

 

23 日本民法では、財産と称すべき権利がどのようなものかを示すのに早道の方法をとって第2条・第3条を設けたことは既に上に述べました。以上、第2条・第3条の説明が終わったので、ここで財産と称すべき権利につき、一言付け加えておきます。

 日本民法で財産と称する権利は、物権と人権の2つに限られます。そして、物権は、第2条にこれを列挙してその数を限定し、それによって非常に明瞭になっています。人権については、第3条でその数を定めていません。そのため、やや漠然としているかのようですが、人権に対する義務の4つの原因を掲げています。本編第2部第1章第1節から第4節までの各節を見れば、それにより義務に一定の区域があることがわかります。第1条第2項にいう人権は、この4つの原因のうちの1つから生ずる義務に対する人権に限定されることもまた明らかです。つまり、人権であり財産と称すべきものは、ただ第3条に掲げるものだけであることがわかります。ここまで説明してきたことにより、日本の民法で財産と称する物権・人権が何であるかがはじめて明瞭になってきます。これに第4条に掲げる権利を加えれば、財産である権利は完全なものになります(特に第380条参照)。


24 我々の権利であり民法上財産であるものは以上です。これに対し、財産ではないものをいくつか挙げておきましょう。

 教師であり代言人である権利は、これによって直接に利益を得ることができます。例えば、代言人は代言職で生計を立てています。しかし、日本民法はこれを財産としません。日本民法は人の資格を財産とはしないのです。そのため、代言人としての資格は財産とはなりません。

 親族の縁故から生ずる権利、つまり父子・夫婦である権利、そのほか国人である権利のような身分に関する権利もまた、上に掲げる物権・人権の中には含まれません。そのため、財産とはなりません。

 父子・夫婦である権利から、相続や、扶養料を請求する権利が生じます。これもまた人に利益を与えるもので、財産とすべきもののようにも思われます。しかし、日本民法は前項に示した主義により、これを財産としません。

 自由権つまり言論をし、技術を施し、身体を動作するなどの自在な機能を俗に「自由権」といいます。これもまた上に掲げる物権・人権の中には含まれません。そのため、財産とはなりません。

 種々の抜芸、例えば俳優・画工・演奏者の技芸は、これにより利益を得ることができます。しかし、これらの技能が我々の身体の中に潜伏して、まだ外部に発露していない間は、これは我々の機能であるにすぎません。これがそれらを民法で財産とはしない理由です。しかし、既にこれを外部に発露し、事物に施した場合には発明権や著述権その他種々の権利を生じて財産となります。

 また、「面目権」と称するものがあります。我々が面目を保ち、他人がこれを毀損することを許さない権利をいいます。上の自由権とこの面目権を合わせて内部財産と名付ける学説もあります。しかし、これもまた上の物権・人権の中には含まれていません。そのため、財産とはなりません。

 一般に、我々の面目は、人である資格を保持するためのものです。法律はもとよりこれを害することを禁じていますが、これを指して直ちに財産ということはできません。面目を財産とすると、我々の種々の機能はもちろん、我々の手足身体も財産とすることになり、奇怪な結果となります。これが民法で面目を財産としない理由です。ただし、我々の面目を毀損し、我々に損害を加える者がある場合には、我々は第370条によりその賠償を請求することができます。ここまでになれば、その者に賠償の義務が生じ、自分にはその履行を請求する権利が生じます。この義務は、第295条に定めた原因のその1つ、つまり不正の損害より生ずるもので、これに対する権利は第3条に掲げる人権なので、財産となるのです。

 

25 略(論説)

*1:人権すなわち債権とは、特定の人に対し、法律の認める原因により負担する作為又は不作為の義務を尽くさせるために行使するものをいい、主たる人権と従たる人権をいう。

*2:従たる人権とは、債権を担保する保証及び連帯をいう。